邦画専門

雑感。

『響-HIBIKI-』劇場版サイレントマジョリティー

公式サイト(http://www.hibiki-the-movie.jp/sp/cast.html)

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高校の先輩の指を折り、芥川賞受賞作家の顔面を蹴飛ばし、記者に向かってマイクを投げつけ、飛び蹴りをかます。一見無作法で、自分の気に入らないことに対して当たり散らしているように映る響だが、そうではない。

響が手を出すのは、ずっと寄り添ってきてくれた幼馴染が先輩に缶を投げつけられた時、文芸部という居場所を作ってくれた友人が他の作家から侮辱を受けた時、自分を評価してくれた担当編集者が記者にいじめられた時など、決まって自分を大切にしてくれる人達のためだった。

響は小説を「大好き。読むのも書くのも好き。他人の心に触れられるようで」と言っていた。

響にとって、小説とは人の心。ならば、響自身が書いた小説は、自らの心情の投影であり、言ってしまえばそれは、自分自身。つまり、他人が自分の書いた小説を評価してくれるということは、自分を受け入れてくれるということと同義なのだ。だからこそ、自分の心に触れてくれた文芸部員や担当編集者に対する無礼な言動や行動は見過ごせないし、ふつうの人であれば空気を読んでじっと耐えるような状況でも手が出てしまう。

そういった価値観や倫理観も含め、彼女が"俗物と比べて違っている"からこそ、「"御伽"の庭」という作品が出来上がったのだ。

また、響の書いた「御伽の庭」が世間から高い評価を得たということは、響の書いた小説は響自身なのだから、響のとった行動は、肯定されて然るべきどころか、実際にそういった状況に立たされた時、我々が本来とらなければいけない行動なのだ。

今一度、冒頭に記した響の反抗の対象を読み返してほしい。それらは、支配を目的とするスクールカースト、断りきれない上司からのセクハラ、多勢に無勢のいじめなどの社会問題に直結する。

見えない何かに怯え、Noと言えない現代社会に一石を投じる、そんな作品。

以上。

 

てち可愛かったなぁ。