邦画専門

雑感。

『検察側の罪人』 俺の屍を越えてゆけ

公式サイト(http://kensatsugawa-movie.jp/sp/index.html)

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悪を断罪するためにとったはずの正義の剣。その剣が錆びることはなく、使えば使うほどその切れ味は、落ちるどころか増していく。自ら行った殺人を正当化できるほどに。

木村拓哉演じる最上はベテランの検事である。ある一件で最上は、自らの掲げる正義を執行するため、障害となる人物の殺人を企てる。それは検察官として最後の手段ではあるが、加担するのは最上が長年の検事としての活動の中で知り得た殺人のプロ。自分が犯人だと割れることはなく、失敗のリスクも最小に抑えられた最高級の正義の剣。その切れ味は言うまでもなく抜群だ。

しかしそもそもの発端は老夫婦の殺害事件。この事件では被害者に刺さった包丁の刃は折れており、先端は身体に残ったままになっており、必然的に凶器は古く切れ味の悪い包丁であると推定されていた。

もし、善人と悪人の、最上と老夫婦殺害事件の犯人の持つ刃物が逆だったら?

最上に殺人を支援する悪人とのパイプなどなく、弓岡殺しが白日の下に晒されていたら松倉まで死ぬことはなく、そもそも弓岡を殺そうという発想にさえ至らなかったのではないか。

老夫婦殺害事件の犯人が新しく切れ味の良い包丁を使っていたら、殺人で包丁が折れる話を弓岡が吹聴することも、最上に証拠として偽造されることもなく、事件はもっと迅速に解決していたのではないか。

悪人の持つ凶器ほど鋭い方がいいはずはないのだが、このどうにもならないやるせなさが感傷を刺激して今作を彩っているように思う。

最上が山荘に二宮和也演じる沖野を呼び出すラストシーン。テラスで最上がハーモニカを手にするのは、白骨街道での兵士や実父のように、人殺しまでしてもなお、思うようにいかない無念を次代に託す、挫折の演出として見てとれる。

そして、検察として最高の剣を手にするまでに至った最上の暴挙を食い止めたのは、彼の部下である沖野であった。

今作は明確な3部構成になっていて、第1章で沖野は諏訪部の取り調べを行うのだが、これは失敗に終わる。続く第2章では松倉の取り調べ。時効が過ぎた事件ではあるが、今度は自供を勝ち取る。そして最終章では、かつての上司である最上から、弓岡の死体を埋めたという自供を勝ち取った(山荘での絶叫はさしずめ勝利の雄叫びといったところか)。これにより、各章の進行に伴う沖野の成長が見てとれる。

また、最上が検察として"剣"を振るうのに対し、検察を辞めた沖野は弁護士となって"盾"として機能しており、最上は人の命を奪ったが、沖野は橘との間に新しい命を育むという、この両極端な対比も非常に面白い。

 

日常では聞き慣れない単語が飛び交う中で、言葉の使い方や表情の変化によって、人物同士の相互関係や現在の状況が伝わってくる説明的でない構成になっているので、終始気が抜けない。しかし、要所で流れる軽快なクラシックのおかげで、少し凄惨なシーンでもさほど苦しまずに観ていられる。とても良質な緊張感をはらんだ作品。演者の芝居も、日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞と優秀主演男優賞(辞退)の名に恥じぬ素晴らしいものだった。

文句なし。満点。以上。