『アイドル論』西野七瀬 文春砲を受けて

私は乃木坂46が好きだ。推しは各期それぞれ西野七瀬鈴木絢音梅澤美波。そして今回の文春砲は私にとってもスルーできるものではなかった。なぜなら、私は西野七瀬が大好きだから。

様々なスレ、公式Twitterへのリプ、乃木ヲタ達のツイートを徘徊して思うところがあったので以下に述べる。

元来"アイドル(idol)"とは、"偶像"の意。偶像とは、崇拝の対象とされるものだ(偶像崇拝)。なぜ彼女らがアイドルとよばれるに至ったか。それは彼女らが、神仏にかたどった偶像と同程度に尊い存在であるからに相違ない。

また、アイドルとは"成長過程をファンと共有し存在そのものの魅力で活躍する人物"と記述されることもある。日本の芸能界における「アイドル」に該当するのがこれだろう。例えば、キリストの成長過程が出生から天啓に至るまで記述されたのと同様に、仏陀の成長過程が出生から悟りの境地に達するまで記述されたのと同様に、デビューから7年間ファンの期待に応え続けたアイドル(乃木坂46一期生)は最早成熟し切っており、神仏に近しく神秘的であると言っても過言ではない。

ならば我々一般人はアイドルに対し、信用、信頼、よりどころとすることはあれど、アイドルの活動を制限したり、異論を唱えるなどは最大限控えるようにというのが私の意見だ。

しかしフォトブック公式Twitterへのリプを見れば、セクハラともとれるような暴言ばかり。少し検索をかければ崇拝を止めるなど、数々の身勝手な言動が見られ、私は「ファン層の意識の低下」を認識せざるを得なかった。これでは、我々に7年間トキメキを与え続けることで、我々の人生を潤してくれた西野七瀬への恩義に対し、仇で返しているようなものではないか。

それとは別に、この様な事態になった原因は、「会いに行けるアイドル」、「今会えるアイドル」の登場にあるとも考えられる。神仏の背中を追いかけていたはずが、神仏(アイドル)の方が我々と同じ姿形をしてファンの方へ寄り添ってきてくれたことで、我々は神仏と一般人とを混同してしまった。手が届く距離に降りてきてくれたことで、抱いてはいけない独占欲が芽生えてしまい、スキャンダルに対して過剰に反応するようになってしまった。つまるところ"調子に乗ってしまった"のだ。

しかし乃木坂46は、「今会えるアイドル」、「会いに行けるアイドル」の枠組みのどちらにも当てはまらない。焦がれても届かぬ、正に"偶像"そのものであるということに注意してほしい。神仏のしたことは神仏が望んでしたことであって、たかだかファンの分際で、その行いに口出し、ましてやこれからの神仏の活動を妨害するような行動、言動をとることはたいへん畏れ多いことであり、それこそ間違いであると言える。

アイドルを本当に縛りつけているのは文春でも何でもなく、我々ファンの存在であることに早く気づくべきなのだ。

こんな記事一本でファンの意識が劇的に変わることなど到底あり得ないと思うが、私は言わずにはいられない。本当に西野七瀬を、乃木坂46のことを愛しているのであれば、我々は西野七瀬の前途幸福をひたすらに願うものであり、いたずらに西野七瀬を穢さないことこそ肝要である。

以上。