邦画専門

雑感。

『響-HIBIKI-』劇場版サイレントマジョリティー

公式サイト(http://www.hibiki-the-movie.jp/sp/cast.html)

f:id:hanazawaproject:20180914204725j:image

高校の先輩の指を折り、芥川賞受賞作家の顔面を蹴飛ばし、記者に向かってマイクを投げつけ、飛び蹴りをかます。一見無作法で、自分の気に入らないことに対して当たり散らしているように映る響だが、実はそうではない。

響が手を出したのは、ずっと寄り添ってきてくれた幼馴染が先輩に缶を投げつけられた時、文芸部という居場所を作ってくれた友人が他の作家から侮辱を受けた時、自分を評価してくれた担当編集者が記者にいじめられた時など、決まって自分を大切にしてくれる人達のためだった。

響は小説を「大好き。読むのも書くのも好き。他人の心に触れられるようで」と言っていた。

響にとって、小説とは人の心。ならば、響自身が書いた小説は、自らの心情の投影であり、言ってしまえばそれは、自分自身。つまり、他人が自分の書いた小説を評価してくれるということは、自分を受け入れてくれるということと同義なのだ。だからこそ、自分の心に触れてくれた文芸部員や担当編集者に対する無礼な言動や行動は見過ごせないし、ふつうの人であれば空気を読んでじっと耐えるような状況でも手が出てしまう。

そういった価値観や倫理観も含め、彼女が"俗物と比べて違っている"からこそ、「"御伽"の庭」という作品が出来上がったのだ。

また、響の書いた「御伽の庭」が世間から高い評価を得たということは、響の書いた小説は響自身なのだから、響のとった行動は、同様に高く評価されて然るべきであり、実際にそういった状況に立たされた時、我々がとるべき行動なのだ。今一度、冒頭に記した作中の響の反抗の対象を思い出してほしい。スクールカースト、セクハラ、いじめなどの諸問題を模しているのがわかる。

見えない何かに怯え、Noと言えない現代社会に一石を投じる、そんな作品。

以上。

 

てち可愛かったなぁ。

 

『累-かさね-』 人類観測史上最長虚構

公式サイト(http://kasane-movie.jp/sp/index.html)

f:id:hanazawaproject:20180910225652j:image

フィクションがある。アニメでも特撮でもドラマでもなんでもいいが、それらは全て虚構である。虚構というものは現実ではないというただ一点において、現実の中でしか生きることのできない人々を魅了し、惹き付ける。

天才的な演技力を持つ淵累は、ある事件で顔に深い傷を負ってしまい、舞台上で演じることが困難になってしまった。一方、絶世の美貌を誇る丹沢ニナは、演技力に伸び悩み、舞台女優としてのスランプに直面していた。二人は羽生田という男に引き合わされ、キスをすると顔が入れ替わる口紅を使うことで、累はニナの顔で舞台上で演じられる悦びを、ニナは累の演技で名声が上がる悦びを得るはずだったのだが、ある現場で累は、烏合零太という演出家に出会い、彼の物事の本質を見通す眼差しに惹かれていく。しかしニナもまた、彼に以前から恋をしていたのであった。累が烏合に惚れていることを察知したニナは、日頃累に優しく接することで心の隙を作り、まんまと烏合と過ごす一夜を累から奪うこととなる。しかしニナはその後、持病の発作で5ヶ月間の昏睡状態に陥ってしまう。累はかつて烏合の一件でニナに騙され、出し抜かれたことから、今度は昏睡中のニナを介抱することで、口紅をすり替えたことを目覚めたニナに悟らせず、ニナの人生を完全に乗っ取ることに成功する。

累はニナの顔を奪い、人生を乗っ取った。しかし、この物語の本質はそこではない。累がニナの人生を奪うのと同時に、淵累として生きていく一切を放棄し、虚構そのものになったということこそ、今作の肝にあたるところだ。

累は母親や想い人、家だけでなく、自身が長年抱き続けた劣等感さえ放棄した。ただ一つ彼女に残ったのは、口紅を使って12時間で元に戻ってしまう自分の顔だけ。

劇中での"サロメ"のラストシーンで、累の演じるサロメは、ヨカナーンの首を抱くのだが、あれは奪ったニナの顔を愛でるようにしているのではなく、顔以外の一切を放棄した累自身を、死んで顔以外の情報がなくなったヨカナーンに重ね合わせ、愛でているのだ。

舞台袖で淵透世の幻影が差し伸べた手を無視し、サロメの舞台へと出ていく累。しかしその道こそ、淵透世が通った道なのだ。冒頭の墓参りのシーン。淵透世も他人の顔を奪って生きていたのだから、あの13回忌は本質的には淵透世のものではないということになる。しかし法事に集まった人の数は、遺族のみで行われるのが通例である13回忌とは思えないほど多い。死ぬことすらも虚構。死んでもなお虚構であり続け、現実の中で生きる人々を惹きつける。

この世でただ一人虚構の中を生き、人々を魅了し続ける尊い存在、それが『累』。

 

天才的な演技力を誇るという設定を見事に振り切った演者の素晴らしさ。

透世の真実が明かされてからはどこかSFチックのような感じもして、群像劇には留まらないおかしさがこの脚本にはあった。

総じて素晴らしい。

以上。

 

『検察側の罪人』 俺の屍を越えてゆけ

公式サイト(http://kensatsugawa-movie.jp/sp/index.html)

f:id:hanazawaproject:20180825051035p:image

悪を断罪するためにとったはずの正義の剣。その剣が錆びることはなく、使えば使うほどその切れ味は、落ちるどころか増していく。自ら行った殺人を正当化できるほどに。

木村拓哉演じる最上はベテランの検事である。ある一件で最上は、自らの掲げる正義を執行するため、障害となる人物の殺人を企てる。それは検察官として最後の手段ではあるが、加担するのは最上が長年の検事としての活動の中で知り得た殺人のプロ。自分が犯人だと割れることはなく、失敗のリスクも最小に抑えられた最高級の正義の剣。その切れ味は言うまでもなく抜群だ。

しかしそもそもの発端は老夫婦の殺害事件。この事件では被害者に刺さった包丁の刃は折れており、先端は身体に残ったままになっており、必然的に凶器は古く切れ味の悪い包丁であると推定されていた。

もし、善人と悪人の、最上と老夫婦殺害事件の犯人の持つ刃物が逆だったら?

最上に殺人を支援する悪人とのパイプなどなく、弓岡殺しが白日の下に晒されていたら松倉まで死ぬことはなく、そもそも弓岡を殺そうという発想にさえ至らなかったのではないか。

老夫婦殺害事件の犯人が新しく切れ味の良い包丁を使っていたら、殺人で包丁が折れる話を弓岡が吹聴することも、最上に証拠として偽造されることもなく、事件はもっと迅速に解決していたのではないか。

悪人の持つ凶器ほど鋭い方がいいはずはないのだが、このどうにもならないやるせなさが感傷を刺激して今作を彩っているように思う。

最上が山荘に二宮和也演じる沖野を呼び出すラストシーン。テラスで最上がハーモニカを手にするのは、白骨街道での兵士や実父のように、人殺しまでしてもなお、思うようにいかない無念を次代に託す、挫折の演出として見てとれる。

そして、検察として最高の剣を手にするまでに至った最上の暴挙を食い止めたのは、彼の部下である沖野であった。

今作は明確な3部構成になっていて、第1章で沖野は諏訪部の取り調べを行うのだが、これは失敗に終わる。続く第2章では松倉の取り調べ。時効が過ぎた事件ではあるが、今度は自供を勝ち取る。そして最終章では、かつての上司である最上から、弓岡の死体を埋めたという自供を勝ち取った(山荘での絶叫はさしずめ勝利の雄叫びといったところか)。これにより、各章の進行に伴う沖野の成長が見てとれる。

また、最上が検察として"剣"を振るうのに対し、検察を辞めた沖野は弁護士となって"盾"として機能しており、最上は人の命を奪ったが、沖野は橘との間に新しい命を育むという、この両極端な対比も非常に面白い。

 

日常では聞き慣れない単語が飛び交う中で、言葉の使い方や表情の変化によって、人物同士の相互関係や現在の状況が伝わってくる説明的でない構成になっているので、終始気が抜けない。しかし、要所で流れる軽快なクラシックのおかげで、少し凄惨なシーンでもさほど苦しまずに観ていられる。とても良質な緊張感をはらんだ作品。演者の芝居も、日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞と優秀主演男優賞(辞退)の名に恥じぬ素晴らしいものだった。

文句なし。満点。以上。

 

『BLEACH』 アニメ的とは

公式サイト(http://wwws.warnerbros.co.jp/bleach-movie/sp/)

f:id:hanazawaproject:20180813214321j:image

出会い、好敵手、戦闘、勝利、見飽きた少年誌の王道エッセンスも2時間に凝縮すれば味わい深くなるものだ。黒崎家→教室→屋上→高架下や境内(非日常)→また黒崎家のように、内容にあわせた場面の変化で各シークエンスが構成されており、非常に見易くなっている。

 

ところで公開前はファンからの批判が相当数あり、名作ということで他の実写化作品より悪目立ちもした。紛うことなき"傑作"なのだが。

 

原因はやはりキャストのビジュアルにあると思う。かくいう私もキービジュアル公開の段階では"失敗"の2文字が脳裏をよぎった。しかし実際に見て分かったのだがこのキャスティング、おそらくは見た目より声に重きを置いている。"声音"というより"声質"と言った方が近い。恋次の「ルキア」、ルキアの「バカもの」という台詞が特にアニメ的で良い。この声に重きを置いたキャスティングのおかげでビジュアルにはさほど違和感を抱かずに鑑賞できる。オープニング、エンディング、エンドロールで3回キャストを見せるだけのことはある。(まじで3回見せられる)

 

映像の方も、大技を打ち合う、鍔迫り合う、会話や思考で状況を整理、説明する原作やアニメと違い、早く、鋭く、連続的で情報量が多く、とても見応えがあった。実写版るろ剣BLEACH版という表現の仕方は割とあっていると自分では思う。

 

また個人的に印象的だったシーンが、ルキア白哉に跪くシーン。スカートを着用し、跪いているルキアをカメラは正面から捉えているのだが、スカートが巧く両足の間にたるむことでパンティーが見えなくなっている。R-17指定アニメによく見うけられるこの演出が実写化で見られるとは大収穫だった。俺はこれに1800円出せる。

一護vs白哉が終わった直後なので是非とも観測して欲しい。

 

最後になるが、実写版『BLEACH』面白かった。やはり映像作品は"見ないと"分からないものだ。実写化作品に限ったことではないが、公開前から批判をすると、好評だった際に赤っ恥をかくことになるので、なるべく控えるのが丸い。

以上。

 

原作ファンの期待に応えるべく、実写化で工夫して頑張ることを私は"アニメ的"と呼んでいます。

 

『空飛ぶタイヤ』 三者三様

公式サイト(http://soratobu-movie.jp/sp/)

f:id:hanazawaproject:20180628235236j:image

大筋の感想を書く前に先ず、伝えたい。

深田恭子のおっぱいは、エロい。

この作品、小池栄子という爆乳女芸人も出演しているのだが、小池栄子小池栄子なんか全く気にならないくらい、深田恭子深田恭子は性的でエロいのだ。横縞ニットを着せた監督に感謝。これに私は1000円出せる。

その他演者について語るとすれば、画像の通り、豪華の一言に尽きる(主題歌を担当するサザンオールスターズ含め)。

以下、感想。

言ってしまえば今作は、中小企業が財閥という大企業相手に立ち向かった過程とその顛末を描いたものだ。特に巧いと思ったのが、運送会社、自動車メーカー、銀行それぞれの反乱因子である3人が財閥に対し三者三様の抗い方を見せたことだ。運送会社の反乱因子は足を使って情報をかき集め、自動車メーカーの反乱因子は財閥内部のPCにアクセスすることで情報を盗みだし、銀行は融資を遅らせることで情報が効果的に機能するのを待った。無敵の大企業相手に一手では絶対に勝てない。グーチョキパーを揃えて初めて無敵に打ち勝つ可能性が出てくるのだ。ラストシーン、全ての始まりの場所で盟友が袂を分かつ終結の演出は、たいへん見応えがあった。

演出について語れば、探り合いのシーンでカメラが限界まで顔に寄ることで映し出される視線の動き、清々しい青空によってかえって高まる窮地の絶望指数など、良い脚本に良い演出が施され、非常に高い水準の映像作品となっている。

最後になるが、今作で"組織の動き"という濁流から抜け出した主要な反乱因子3人の社会的地位は、運送会社社長、自動車メーカー販売部課長、銀行本店営業本部という決して低くはないものだった。つまり、間違っていることを間違っていると指摘して良い結果を得るには、相応の地位が必要なのだと現実を突きつけられた感じもしていて、辛抱強く生きていこうと思うのであった。

現実に即した場面設定で逆境に屈しない強い人間が描写されていることで、実際に現在を生きる我々に活力を与えてくれることは池井戸作品が愛される理由の一つだと思うのだが、私は今作を見て上記のような感想を抱いたので、今作は原作を完璧に映像へ昇華した作品といえなくもない(自信ない)。

以上。

 

『狐狼の血』 絶対的復讐とは

公式サイト(http://www.korou.jp/sp/)

f:id:hanazawaproject:20180515011426p:image

“血湧き肉躍る、男たち渇望の映画“が誕生した。
 昭和63年。暴力団対策法成立直前の広島の架空都市・呉原を舞台に、刑事、やくざ、そして女が、それぞれの正義と矜持を胸に、生き残りを賭けて戦う生き様を描いた映画『孤狼の血』。決して地上波では許されない暴力描写とエロス、耳にこびりつく怒号と銃声。観る者は生々しいまでの欲望にあぶられ、心は必ず火傷する。『警察小説×仁義なき戦い』と評される同名原作を映画化した本作は、昨今コンプライアンスを過度に重視する日本の映像業界と現代社会に対する新たなる挑戦であり、数々の【衝撃作】を世に送り出してきた東映が放つ【超衝撃作】である。

広島県警呉原東署 刑事二課主任 大上章吾巡査部長は、大層な遊び人であり、クラブやキャバクラに入り浸り、警察でありながらヤクザから賄賂を受け取り、捜査のために必要とあらば、窃盗、放火、拷問も厭わない違法にして無法な人物であった。作中では「広島仁正会」と「小谷組」の対立が戦争に発展するのを防ぐべく奔走するが、大上の違法捜査に目をつぶっていられなくなった広島県警本庁は新人である日岡秀一を内偵として送り込む。呉原東署に異動になった日岡秀一は、おそらく(明確な描写はないが)本庁からの圧力もあり、大上のパートナーとして共に捜査をすることを命じられるが、大上の度を超えた違法捜査についていけず、肉体的にも精神的にも限界の状態であった。

しかし違法捜査は目の当たりにしたのだから、後はこれを本庁へ報告すれば内偵としての職務は全うしたことになり、大上は良くて謹慎、悪ければ逮捕という状況に追い込まれ、パートナーは解消され、本庁へ戻れる可能性もある。当然日岡はそうする。しかし違法捜査の証言、ヤクザとの会話の録音などのこれ以上ない物的証拠を提出しても一向に大上は処分されることがない。

そもそも大上はなぜ警察でありながらヤクザと繋がりなど持てるのか。「大上の頭の中にはヤクザを壊滅にすら追い込むことの出来る情報があるのだ」と、古くから大上を知る者はそう言う。本庁上層部の話でも「大上はヤクザを壊滅させるだけの情報を書き留めた一冊のノートを所有している」とされており、日岡はそのノートの回収を命じられる。

時を同じくして、いよいよ広島仁正会と小谷組の対立が戦争に発展しようとしていた。大上はシマを荒らす広島仁正会の連中にしびれを切らし、抗争をしかけようとする小谷組との交渉の結果、3日間の猶予をもらったが、広島仁正会の行動が大人しくなることはなかった。それでも大上は必死に働きかけ、なんとか抗争を食い止めようとするも、しつこく交渉してくる大上に嫌気がさした広島仁正会によって殺されてしまう。

しかしこの事態を予測していた大上は、行きつけのクラブ「梨子」のママである高木里佳子に例のノートを渡していた。「俺が死んだらそのノートは日岡に渡すように」という大上の遺言に従って、ノートは里佳子から日岡へと渡る。しかしそのノートに書かれていたことはヤクザの弱みなどではなく、広島県警全員分の不祥事をまとめたものであった。日岡は「ヤクザを止められるのはヤクザと太いパイプのある大上しかいない。大上は身内の不祥事を盾とすることによって違法捜査の処分を免れてきた」という真実を里佳子から聞かされ、警察上層部はヤクザの情報欲しさではなく、保身のためにノートを手に入れようとしていたこと、大上の今までの悪辣な行動の裏にはカタギの人々を思いやる確かな正義があった事実を知り、大上が亡くなる原因となった小谷組、広島仁正会に対し、復讐を決意する。

その復讐の内容が凄まじかった。

大上と捜査を共にしてきた日岡には、広島仁正会全日本祖国救済同盟代表の瀧井銀次、小谷組若頭、一之瀬守孝との若干の繋がりがあった。狙うのは広島仁正会が参加する祝賀会。会長である五十子正平がトイレに行くと会場にいる瀧井に合図を出させ、外に待機させておいた一之瀬と共謀し、五十子の元に案内し、殺させる。ヤクザの間には会長や若頭といった重要ポストにいる人間が逮捕されぬよう、立場が下の者が自首することで上の者は罪を免れるというシステムがあるのだが、日岡はそれを逆手に取り、殺人を終え、トイレから出てきた一之瀬をその場にいた小谷組の面々共々呉原東署総掛かりで現行犯逮捕する。こうして会長である五十子と組長代行(小谷組組長は服役している)を務めていた一之瀬が捕まったことで両組織は統率がなくなり、解散を余儀なくされた。大上が3日の猶予で食い止めることのできなかった抗争を、日岡はわずか1日で終結させてみせたのである。

これぞ報復を呼ばない絶対的な復讐である。

しかし組織壊滅のためとは言え、ヤクザと共謀することを計画の一端に盛り込んだ作戦を呉原東署がそう簡単に承認するとは思えない。おそらく日岡は使ったのだ。大上が暴いた広島県警の不祥事の情報を。

大上が積み重ねてきたことを復讐の機転に組み込んだことで、大上の存在は偉大であったと証明するような日岡の行動は、亡き大上への餞のようで美しかった。

警察でありながらヤクザと癒着し、警察でありながら身内の不祥事を暴く。警察にヤクザ、どちらにも居場所がない故に"狐狼"。傍から見ればその行動は「悪」そのもの。しかしその思想が「正義」足るからこそ、"血"は次代へ脈々と受け継がれる。正義は悪なり得、悪もまた正義なり得る。

以上。

 

『ラプラスの魔女』 全能足り得ぬからこそ〜

公式サイト(http://www.laplace-movie.jp/sp/index.html)

f:id:hanazawaproject:20180505015312j:image

もしもある瞬間における全ての物質の力学的状態と力を知ることができ、かつもしもそれらのデータを解析できるだけの能力の知性が存在するとすれば、この知性にとっては、不確実なことは何もなくなり、その目には未来も(過去同様に)全て見えているであろう。

ラプラスの自著における『ラプラスの悪魔』の定説である。つまり、世界に存在する全ての原子の位置と運動量を知ることができるような知性が存在すると仮定すれば、その存在は、古典物理学を用いれば、これらの原子の時間発展を計算することができるだろうから、その先の世界がどのようになるかを完全に知ることができる、ということだ。この架空の究極概念をラプラス自身は単に「知性」と呼んだが、エミール・デュ・ポワ=レーモンが「ラプラスの霊」と呼び、その後広く伝わっていく内に『ラプラスの悪魔』という名前が定着することとなった。物語の中では、未だ解明されていないナヴィエ・ストークス方程式の解が『ラプラスの悪魔』の中にあるとされており、乱流(竜巻、ダウンバースト等)の性質を記述することが信じられている。コンピュータが実現した現在でも、全原子の位置、運動量を計測できたとして、1秒先の事象を予測しようとしても、1秒先の事象を予測するのに1秒以上かかったとして未来を知ったことにはならず、ラプラスの悪魔のような知性は科学的に見れば実現不可能とされることもある。

アイザック・ニュートン、ルネ・デカルトでさえも神を考慮しつつ自説を組み立てており、この作品は、その手に余るまさに神の如き力を手に入れた2人の悪魔の"復讐"と"救済"の物語であるといえる。

父である甘粕才生の身勝手な殺人動機により、最愛の母と娘を亡くした甘粕謙人は、その事件の巻き添えで植物状態になってしまう。しかし植物状態から回復する可能性のある一つの施術を受け、状態は元の身体環境となんら遜色ない程度まで回復していた。ただ一つ違ったのは『ラプラスの悪魔』に目醒めたという点だ。しかも彼は昏睡の傍ら、実の父である甘粕才正こそが、水城義郎、那須野五郎と共謀し、母と娘の殺害に及んだ事実を知り、復讐を決意する。

開明大学病院の脳神経外科医師である羽原全太朗の娘、羽原円華は10歳の時に竜巻に遭い、最愛の母を亡くす。時を経て、開明大学で研究対象とされていた『ラプラスの悪魔』を持つ甘粕謙人の存在を知る。もし自分がこの知性を手に入れられれば、竜巻の発生予測も可能になり、母のような無惨な事故には二度と遭わずに済むとして、罪悪感からの救済を求め、甘粕謙人が『ラプラスの悪魔』を手に入れるきっかけとなった施術を父から受け、その知性に目醒める。

この物語の真に悪魔的な部分は、甘粕才正の持つ独善欲による殺人ではなく、全く同じ知性を持った人間同士でも、知性への至り方一つ違うだけで全く異なる事象の捉え方、行動を起こすという点だ。例えば甘粕謙人と羽原円華がみた"月虹"。これを見た者には亡くなった人間が橋を渡り祝福を与えに訪れるという言い伝えがあるらしいが、片や純粋に救済の時に思いを馳せ、片や父とその共謀者に対する復讐心を燃やしている。どれだけ卓越した知性を持とうとも、人間の腹の底を推し量ることは難しく、行動を100%予測することは適わず、何気なく触れ合っている身近な人間でも犯罪に手を染める可能性があるということ、持て余す力なら使わない方が賢明であるということだ。

しかしその一方で、人間は時に予測さえも上回る力が備わっているということでもある。『ラプラスの悪魔』を持ってしても難しいとされていた乱流の発生予測さえも可能になり、ダウンバーストによって建物が倒壊するのを利用して父と共に死ぬことで復讐を終えようとした甘粕謙人に、ダウンバーストによって吹き飛ばされる車で建物に穴を開け、内部気圧を上昇させることで倒壊を防いだ羽原円華の行動が予測できなかったように、我々人間には、計算や理論だけでは決して予測できない奇跡をおこせるだけの力があることの示唆を見落としてはならない。 以上。