邦画専門

雑感。

『仮面ライダー平成ライダージェネレーションズ FOREVER』 虚構の論理的解析

公式サイト(http://www.movie-taisen.com/sphone/)

f:id:hanazawaproject:20181222211637j:image

佐藤健の本人出演に始まり、龍騎ウィザード響鬼の炎の必殺技の共演、クロックアップからのアクセルフォーミュラという最高速の理不尽、そして4人のレジェンドライダーの声の出演など、にくい演出がこれでもかと盛りだくさん。

youtubeのトップ広告で最強のフュージョンブルー参戦を大々的にネタバレしてしまうどこぞのバトルジャンキーアニメーションとは大違いの、平成の最後を飾るに相応しい大作であった。

 

仮面ライダークウガから始まる平成仮面ライダーの歴史。スーパータイムジャッカーは、クウガさえ生まれなければ、クウガ以降の平成ライダーの歴史は存在しなかったものとなり、自らの征服の邪魔をするものもいなくなると考えた。そしてクウガの力をクウガが生まれるより以前に奪取することで、平成ライダーの歴史は消失するはずだったのだが、歴史改変の影響を受けない特異点、久永シンゴの存在により、一部ライダーは仮面ライダーとしての自らの消失をまぬがれ、スーパータイムジャッカーに対抗していく。しかし、久永シンゴと一部ライダーを除く世界の全ては歴史改変の影響をもろに受け、その世界で仮面ライダーはテレビや映画で観る虚構の存在になっていた。

私の言いたいことは、仮面ライダーは虚構でよいのだということ。

TVでこそ仮面ライダー以外の一般人は、襲われた敵に怯え、敵を倒してくれたライダーに感謝するというライダーがいて当たり前の生活を送っているが、こと平成ライダージェネレーションズ FOREVERに限っては、一般人にとってライダーは最後まで虚構の存在だったし、野上良太郎(佐藤健)は「記憶と共にある限り、ライダーは在り続ける」とも言っていた。つまりそれは虚構である。

虚構であるということは決して悪いことではない。

なぜなら我々には、"虚構を通して繋がりあえる"力がある。

幼い頃に憧れた仮面ライダー。大人になって視聴してみると、成長の過程で失った大切な何かが輝きを取り戻す。無論、憧れ続けた方もいるだろうが、作中のアタルとシンゴのように、仮面ライダーは大人から子供まで皆の記憶の中にいて、時代を超え年代を超え、語り合い語り継がれることで我々は、"仮面ライダーを通して繋がりあえる"。

 

ところで、フータロスの能力で存在を保ち続けられなくなったライダー達は、ライダーだった時の記憶がなくなり、一般人として生きてきた結果だけが残る。つまり、ライダーとして生きてきたからこそ出会えた人物とは出会えないということになる。

そして突如として2018年に現れたレジェンドライダー達、中にはアナザーライダーに力を奪われていなければいけないはずの人物まで変身が完了している。

ここからはあくまで推測だが、彼らは過去からデンライナーに乗って2018年に来たのだ。

ディケイドのバックルは白色だったし、アナザーライダーが出現する前の時間の状態であれば変身も可能であるだろうし、アナザークウガを倒すにはクウガの力がいるのだ。

経緯を簡単に説明するとこうなる。

電王「アナザークウガ倒すにはクウガはんにいてもらわなあきまへんなぁ。2000年行きまひょ」

クウガ「アギトも連れてこう」

アギト「龍騎も連れて」

龍騎ファイズも」

ファイズブレイド

ブレイド「響k」

電王「もうわかったから」

というぐあいだ。

ラストシーンで戦兎は「(ソウゴが王になると宣言したことを)記憶に留めておこう」ソウゴは「戦兎のこと、絶対忘れない」と言っていたのを憶えているだろうか。こんな感じに平成ライダー達も仮面ライダーの力を通して繋がっていき、平成ライダージェネレーションズという虚構として、我々の中に在り続けるのだ。

以上。

 

 

『劇場版 夏目友人帳〜うつせみに結ぶ〜』感想

公式サイト(https://natsume-movie.com)

f:id:hanazawaproject:20181106220523j:image

人の姿形を真似、記憶を奪い去る大妖がいた。しかしながらその実、その大妖の性質はある老女に優しさとして注がれていた。

人の姿を真似る性質で亡くなってしまった老女の息子を演じ、記憶を奪い去る性質で老女の記憶を改竄することで、老女の目に黒く写っていた雪は元の白さを取り戻した。更にその大妖の性質は、"障り"となってニャンコ先生と多軌を呼び、夏目を呼び、老女の身辺は賑やかさを増した。

老女の日常を構成する人、自然、動物を繋ぐ「切り絵」のような大妖の性質。老女の作る切り絵の向こう側にはきっと、大妖の持つ羽の美しい青色が見える。

以上。

 

『響-HIBIKI-』劇場版サイレントマジョリティー

公式サイト(http://www.hibiki-the-movie.jp/sp/cast.html)

f:id:hanazawaproject:20180914204725j:image

高校の先輩の指を折り、芥川賞受賞作家の顔面を蹴飛ばし、記者に向かってマイクを投げつけ、飛び蹴りをかます。一見無作法で、自分の気に入らないことに対して当たり散らしているように映る響だが、実はそうではない。

響が手を出したのは、ずっと寄り添ってきてくれた幼馴染が先輩に缶を投げつけられた時、文芸部という居場所を作ってくれた友人が他の作家から侮辱を受けた時、自分を評価してくれた担当編集者が記者にいじめられた時など、決まって自分を大切にしてくれる人達のためだった。

響は小説を「大好き。読むのも書くのも好き。他人の心に触れられるようで」と言っていた。

響にとって、小説とは人の心。ならば、響自身が書いた小説は、自らの心情の投影であり、言ってしまえばそれは、自分自身。つまり、他人が自分の書いた小説を評価してくれるということは、自分を受け入れてくれるということと同義なのだ。だからこそ、自分の心に触れてくれた文芸部員や担当編集者に対する無礼な言動や行動は見過ごせないし、ふつうの人であれば空気を読んでじっと耐えるような状況でも手が出てしまう。

そういった価値観や倫理観も含め、彼女が"俗物と比べて違っている"からこそ、「"御伽"の庭」という作品が出来上がったのだ。

また、響の書いた「御伽の庭」が世間から高い評価を得たということは、響の書いた小説は響自身の投影なのだから、響のとった行動は、同様に高く評価されて然るべきであり、そういった状況に立たされた時に実際に我々がとるべき行動なのだ。今一度、冒頭に記した作中の響の反抗の対象を思い出してほしい。スクールカースト、セクハラ、いじめなど、現代社会の諸問題を風刺しているのがわかる。

見えない何かに怯え、Noと言えない現代社会に一石を投じる、そんな作品。

以上。

 

てち可愛かったなぁ。

 

『累-かさね-』 人類観測史上最長虚構

公式サイト(http://kasane-movie.jp/sp/index.html)

f:id:hanazawaproject:20180910225652j:image

フィクションがある。アニメでも特撮でもドラマでもなんでもいいが、それらは全て虚構である。虚構というものは現実ではないというただ一点において、現実の中でしか生きることのできない人々を魅了し、惹き付ける。

天才的な演技力を持つ淵累は、ある事件で顔に深い傷を負ってしまい、舞台上で演じることが困難になってしまった。一方、絶世の美貌を誇る丹沢ニナは、演技力に伸び悩み、舞台女優としてのスランプに直面していた。二人は羽生田という男に引き合わされ、キスをすると顔が入れ替わる口紅を使うことで、累はニナの顔で舞台上で演じられる悦びを、ニナは累の演技で名声が上がる悦びを得るはずだったのだが、ある現場で累は、烏合零太という演出家に出会い、彼の物事の本質を見通す眼差しに惹かれていく。しかしニナもまた、彼に以前から恋をしていたのであった。累が烏合に惚れていることを察知したニナは、日頃累に優しく接することで心の隙を作り、まんまと烏合と過ごす一夜を累から奪うこととなる。しかしニナはその後、持病の発作で5ヶ月間の昏睡状態に陥ってしまう。累はかつて烏合の一件でニナに騙され、出し抜かれたことから、今度は昏睡中のニナを介抱することで、口紅をすり替えたことを目覚めたニナに悟らせず、ニナの人生を完全に乗っ取ることに成功する。

累はニナの顔を奪い、人生を乗っ取った。しかし、この物語の本質はそこではない。累がニナの人生を奪うのと同時に、淵累として生きていく一切を放棄し、虚構そのものになったということこそ、今作の肝にあたるところだ。

累は母親や想い人、家だけでなく、自身が長年抱き続けた劣等感さえ放棄した。ただ一つ彼女に残ったのは、口紅を使って12時間で元に戻ってしまう自分の顔だけ。

劇中での"サロメ"のラストシーンで、累の演じるサロメは、ヨカナーンの首を抱くのだが、あれは奪ったニナの顔を愛でるようにしているのではなく、顔以外の一切を放棄した累自身を、死んで顔以外の情報がなくなったヨカナーンに重ね合わせ、愛でているのだ。

舞台袖で淵透世の幻影が差し伸べた手を無視し、サロメの舞台へと出ていく累。しかしその道こそ、淵透世が通った道なのだ。冒頭の墓参りのシーン。淵透世も他人の顔を奪って生きていたのだから、あの13回忌は本質的には淵透世のものではないということになる。しかし法事に集まった人の数は、遺族のみで行われるのが通例である13回忌とは思えないほど多い。死ぬことすらも虚構。死んでもなお虚構であり続け、現実の中で生きる人々を惹きつける。

この世でただ一人虚構の中を生き、人々を魅了し続ける尊い存在、それが『累』。

 

天才的な演技力を誇るという設定を見事に振り切った演者の素晴らしさ。

透世の真実が明かされてからはどこかSFチックのような感じもして、群像劇には留まらないおかしさがこの脚本にはあった。

総じて素晴らしい。

以上。

 

『検察側の罪人』 俺の屍を越えてゆけ

公式サイト(http://kensatsugawa-movie.jp/sp/index.html)

f:id:hanazawaproject:20180825051035p:image

悪を断罪するためにとったはずの正義の剣。その剣が錆びることはなく、使えば使うほどその切れ味は、落ちるどころか増していく。自ら行った殺人を正当化できるほどに。

木村拓哉演じる最上はベテランの検事である。ある一件で最上は、自らの掲げる正義を執行するため、障害となる人物の殺人を企てる。それは検察官として最後の手段ではあるが、加担するのは最上が長年の検事としての活動の中で知り得た殺人のプロ。自分が犯人だと割れることはなく、失敗のリスクも最小に抑えられた最高級の正義の剣。その切れ味は言うまでもなく抜群だ。

しかしそもそもの発端は老夫婦の殺害事件。この事件では被害者に刺さった包丁の刃は折れており、先端は身体に残ったままになっており、必然的に凶器は古く切れ味の悪い包丁であると推定されていた。

もし、善人と悪人の、最上と老夫婦殺害事件の犯人の持つ刃物が逆だったら?

最上に殺人を支援する悪人とのパイプなどなく、弓岡殺しが白日の下に晒されていたら松倉まで死ぬことはなく、そもそも弓岡を殺そうという発想にさえ至らなかったのではないか。

老夫婦殺害事件の犯人が新しく切れ味の良い包丁を使っていたら、殺人で包丁が折れる話を弓岡が吹聴することも、最上に証拠として偽造されることもなく、事件はもっと迅速に解決していたのではないか。

悪人の持つ凶器ほど鋭い方がいいはずはないのだが、このどうにもならないやるせなさが感傷を刺激して今作を彩っているように思う。

最上が山荘に二宮和也演じる沖野を呼び出すラストシーン。テラスで最上がハーモニカを手にするのは、白骨街道での兵士や実父のように、人殺しまでしてもなお、思うようにいかない無念を次代に託す、挫折の演出として見てとれる。

そして、検察として最高の剣を手にするまでに至った最上の暴挙を食い止めたのは、彼の部下である沖野であった。

今作は明確な3部構成になっていて、第1章で沖野は諏訪部の取り調べを行うのだが、これは失敗に終わる。続く第2章では松倉の取り調べ。時効が過ぎた事件ではあるが、今度は自供を勝ち取る。そして最終章では、かつての上司である最上から、弓岡の死体を埋めたという自供を勝ち取った(山荘での絶叫はさしずめ勝利の雄叫びといったところか)。これにより、各章の進行に伴う沖野の成長が見てとれる。

また、最上が検察として"剣"を振るうのに対し、検察を辞めた沖野は弁護士となって"盾"として機能しており、最上は人の命を奪ったが、沖野は橘との間に新しい命を育むという、この両極端な対比も非常に面白い。

 

日常では聞き慣れない単語が飛び交う中で、言葉の使い方や表情の変化によって、人物同士の相互関係や現在の状況が伝わってくる説明的でない構成になっているので、終始気が抜けない。しかし、要所で流れる軽快なクラシックのおかげで、少し凄惨なシーンでもさほど苦しまずに観ていられる。とても良質な緊張感をはらんだ作品。演者の芝居も、日本アカデミー賞 最優秀主演男優賞と優秀主演男優賞(辞退)の名に恥じぬ素晴らしいものだった。

文句なし。満点。以上。

 

『BLEACH』 アニメ的とは

公式サイト(http://wwws.warnerbros.co.jp/bleach-movie/sp/)

f:id:hanazawaproject:20180813214321j:image

出会い、好敵手、戦闘、勝利、見飽きた少年誌の王道エッセンスも2時間に凝縮すれば味わい深くなるものだ。黒崎家→教室→屋上→高架下や境内(非日常)→また黒崎家のように、内容にあわせた場面の変化で各シークエンスが構成されており、非常に見易くなっている。

 

ところで公開前はファンからの批判が相当数あり、名作ということで他の実写化作品より悪目立ちもした。紛うことなき"傑作"なのだが。

 

原因はやはりキャストのビジュアルにあると思う。かくいう私もキービジュアル公開の段階では"失敗"の2文字が脳裏をよぎった。しかし実際に見て分かったのだがこのキャスティング、おそらくは見た目より声に重きを置いている。"声音"というより"声質"と言った方が近い。恋次の「ルキア」、ルキアの「バカもの」という台詞が特にアニメ的で良い。この声に重きを置いたキャスティングのおかげでビジュアルにはさほど違和感を抱かずに鑑賞できる。オープニング、エンディング、エンドロールで3回キャストを見せるだけのことはある。(まじで3回見せられる)

 

映像の方も、大技を打ち合う、鍔迫り合う、会話や思考で状況を整理、説明する原作やアニメと違い、早く、鋭く、連続的で情報量が多く、とても見応えがあった。実写版るろ剣BLEACH版という表現の仕方は割とあっていると自分では思う。

 

また個人的に印象的だったシーンが、ルキア白哉に跪くシーン。スカートを着用し、跪いているルキアをカメラは正面から捉えているのだが、スカートが巧く両足の間にたるむことでパンティーが見えなくなっている。R-17指定アニメによく見うけられるこの演出が実写化で見られるとは大収穫だった。俺はこれに1800円出せる。

一護vs白哉が終わった直後なので是非とも観測して欲しい。

 

最後になるが、実写版『BLEACH』面白かった。やはり映像作品は"見ないと"分からないものだ。実写化作品に限ったことではないが、公開前から批判をすると、好評だった際に赤っ恥をかくことになるので、なるべく控えるのが丸い。

以上。

 

原作ファンの期待に応えるべく、実写化で工夫して頑張ることを私は"アニメ的"と呼んでいます。

 

『空飛ぶタイヤ』 三者三様

公式サイト(http://soratobu-movie.jp/sp/)

f:id:hanazawaproject:20180628235236j:image

大筋の感想を書く前に先ず、伝えたい。

深田恭子のおっぱいは、エロい。

この作品、小池栄子という爆乳女芸人も出演しているのだが、小池栄子小池栄子なんか全く気にならないくらい、深田恭子深田恭子は性的でエロいのだ。横縞ニットを着せた監督に感謝。これに私は1000円出せる。

その他演者について語るとすれば、画像の通り、豪華の一言に尽きる(主題歌を担当するサザンオールスターズ含め)。

以下、感想。

言ってしまえば今作は、中小企業が財閥という大企業相手に立ち向かった過程とその顛末を描いたものだ。特に巧いと思ったのが、運送会社、自動車メーカー、銀行それぞれの反乱因子である3人が財閥に対し三者三様の抗い方を見せたことだ。運送会社の反乱因子は足を使って情報をかき集め、自動車メーカーの反乱因子は財閥内部のPCにアクセスすることで情報を盗みだし、銀行は融資を遅らせることで情報が効果的に機能するのを待った。無敵の大企業相手に一手では絶対に勝てない。グーチョキパーを揃えて初めて無敵に打ち勝つ可能性が出てくるのだ。ラストシーン、全ての始まりの場所で盟友が袂を分かつ終結の演出は、たいへん見応えがあった。

演出について語れば、探り合いのシーンでカメラが限界まで顔に寄ることで映し出される視線の動き、清々しい青空によってかえって高まる窮地の絶望指数など、良い脚本に良い演出が施され、非常に高い水準の映像作品となっている。

最後になるが、今作で"組織の動き"という濁流から抜け出した主要な反乱因子3人の社会的地位は、運送会社社長、自動車メーカー販売部課長、銀行本店営業本部という決して低くはないものだった。つまり、間違っていることを間違っていると指摘して良い結果を得るには、相応の地位が必要なのだと現実を突きつけられた感じもしていて、辛抱強く生きていこうと思うのであった。

現実に即した場面設定で逆境に屈しない強い人間が描写されていることで、実際に現在を生きる我々に活力を与えてくれることは池井戸作品が愛される理由の一つだと思うのだが、私は今作を見て上記のような感想を抱いたので、今作は原作を完璧に映像へ昇華した作品といえなくもない(自信ない)。

以上。