壺中の天

雑感。

『きみと、波にのれたら』 残酷な意思

公式サイト(https://kimi-nami.com)

f:id:hanazawaproject:20190623033715j:image

残酷、そう思った。

ある夏、ひょんなことから波乗りを愛する大学生・向水 ひな子と、消防士である雛罌粟 港の交際がスタートする。妹を紹介され、イヴの夜は二人きりで過ごし、結婚も現実味を帯びる、ありふれたメロドラマにありがちな展開。そして、その彼が命を落とすというのもまた、ごくありふれた展開なのだ。

港は、海に波乗りに行った折、水上バイクの事故で溺れそうになっている男性を発見、救助し、その生涯を閉じる。デスク上の献花、滞りのない葬儀、愛する人の涙、自然と画面は寂寥感を帯びる。彼の実家に置かれた仏壇には、「港君にはお世話になったから」と、だらしのない体型の老女や髪を刈り込んだ青年など、様々な人が冥福を祈りにやってくる。生前の彼がどれほど沢山の人に慕われ、どれほど素晴らしい人生を送ってきたかが見てとれる。無論のこと、彼の後輩や妹も彼を慕っていた。後輩の川村 山葵は火消しとしての港の矜持を継ぎ、妹の雛罌粟 洋子はバリスタになりたかった港の夢を継いだ。一時は茫然自失の状態だったひな子も彼の願いを知り、それに沿う形でライフセービング(life saving)の意思を継いだ。港のことを慕っていればこそ、彼らは港の生きた証を誰ともなしに示さずにはいられなかったのだと思う。

そして、その彼らを試すように発生する未曾有の大火災。カフェで勤務中の洋子が偶然耳にした火元の情報、消防水利の把握を怠らなかった山葵、いつもの慌てふためいた様子からは想像もつかない冷静さで危険地帯から洋子を連れ出したひな子、そして3人に別れを告げる港。彼らの中には確かに港が息づいていて、それが意味の無いことではないということは、彼らのこの活躍が物語る通りだ。

危機は去り、ひな子は港のいないクリスマス・イヴを迎える。この時、先の大火災で引火したモミの木と、電飾に彩られたポートタワーに映し出されるクリスマスツリーがなんとも対照的だ。時代は変わり、若者が集う場所というのも変化していく。旧き遺物は忘れさられるのみだ。しかし、先の大火災にあって、このモミの木は枝の1本も落とさなかった。ひょっとすると、道管にはまだ水が巡っていて、それがこの木の燃えにくい要因となったのかもしれない。あと何十年かすれば、ひな子は港のことを忘れるのだろう。しかし、たとえ忘れさられたとしても、ひな子の中の港がすっぱり消え失せるということはないのであり、これからの人生でひな子が下していく決断に際して、無意識のうちに港の意思は深く根を下ろしているのだ。

しかし、今はまだその時ではない。遺品のスマートフォンに残された港の願いの内容は、「ひな子が一人で波にのれますように」だけではなかったはずだ。口に出さないところがかえって港の本心らしく、一年越しのラジオメッセージは無情にも、ひな子にその記憶を喚起させる。

「ひな子とずっと一緒にいられますように」

そうしてひな子は波を待つ。二度とはのれない波と知りながら。

以上。



『海獣の子供』 過去の記憶、未来への想い

公式サイト(https://www.kaijunokodomo.com/sp/)

f:id:hanazawaproject:20190616030839j:image

宇宙、星、生命。様々な未知が存在するこの世の中にあって、今作でその焦点となった誕生祭。果たして何を祝う祭りなのか、なぜ観測者を探すのか、その答えはついぞ提示されることはない。しかし、作中において断片的に与えられたヒントが、幾つかある。その1つが、ジュゴンによって育てられたという2人の少年・空と海だ。デデのモノローグによれば、隕石は精子、海のある星は母体の役目を担うのだという。このあからさまな性の暗示について、誕生祭との関連があることは疑いようがない。かと言って、それは隕石が海のある星に激突するということでも、当然ではあるがない。

話は変わるが、ジンベエザメの背の斑点模様は、琉花達が見上げた宇宙の光景に似ていた。祭りの前兆として、様々な魚達を引き連れたジンベエザメの身振りと同じように、空も砂浜から様々な虫達を引き連れていた。また、海が「ひとだま」としてしか認識できなかった隕石を、空は「いんせき」としっかり発音していたし、オキゴンドウの群れの中に隕石の存在を感知したのも空だった。隕石を海のある星まで導く装置、それが空なのだ。

ならば、言うまでもなく海は母体としての機能を有する。海には隕石の接近を感知する能力があるし、ザトウクジラの腹の中で隕石との融合を果たそうとする素振りも見受けられる。空は海の身体について「作りかえられている」と言っていたが、空の持つ隕石の知識と、隕石に対する感知能力の高さも、宇宙的な意思によって身体が作りかえられた結果、獲得したものなのかもしれない。そもそも、実際に人間以外の動物に育てられた人間が何年経っても言葉を発することが出来ないにも関わらず、空や海とは会話さえ成立していること自体が不思議なことなのだ。

なぜ、空と海は言葉を発することができるのか。延いては、なぜ、宇宙的意思は彼らに言語の知識を与えたのか。それについては恐らく、誕生祭の観測者を探すためだと推察される。誕生祭の観測者は、予め海の幽霊に触れていたことで、人間である琉花に決まっていた。人間を招待するためには、人間とコミュニケーションをとる必要がある。だから、彼らは言葉を発せられるし、さらに言えば、人間の姿をしているのだ。

そうして誕生祭を迎え、彼らはその役目を終えたことで消え失せてしまう。誕生祭の終盤、琉花は海から溢れ出した銀河を模した何かを手にする。空は「人間の中には星々の記憶があって、それらが結びつき、銀河となったものが想い」だと言っていた。あの瞬間、確かに琉花は海の想いに触れたのだ。そして、琉花は涙を流す。疑問は常にあった。なぜ、海は乾燥するリスクを負ってまで学校へ琉花を探しにきたのか。なぜ、海はアングラードのいる入江まで琉花を連れてきたのか。なぜ、アングラードは琉花に「海には注意しなよ」と警告したのか。空から隕石を渡されたことによって誕生祭への招待が完了される過程で、もはや用済みとばかりに言語を剥奪された海が本当に伝えたかったこと。「守ってあげなくちゃ」に躍起になるあまり、海の"人"としての特別な想いに気づいてあげられなかったこと。最初に空に冷やかされたところから、琉花も海に対して特別な想いを抱いていたかもしれないということ。琉花はそれを言葉で伝えられなかったことを、また、伝えようがなくなってしまったことを悔いたのだ。

そんな琉花にデデは「信じておやり」と声をかける。他人の想いを受け止められるようになるこれからの自分を。また、その想いに寄り添える未来の自分を。そうして、琉花は日常に戻る。荒んだ生活を送る母の愛を受け止め、姑息な手を使うチームメイトの心中を察した、今までとは似て非なる日常に。

海の95%は今も未知だと言われている。人間にしてみても、言葉には限りがあるがゆえに、想いを100%伝えるというのは難しい。しかし、クジラ達が言葉でなく意思を伝え合うことができるように、我々も言葉でなく誰かを許し、愛することができるのだということを、この映画の観測者として、琉花と同じ身振りをする我々にも、この作品は伝えるのだ。

以上。



『町田くんの世界』 変容する世界

公式サイト(http://wwws.warnerbros.co.jp/machidakun-movie/sp/)

f:id:hanazawaproject:20190609044735j:image

日常は常に変容する。昨日と全く同じという今日はなく、必ずどこかに差異は生じる。それは例えば天気でもあるし、場所でもある。当然、関わる人や話す言葉が違ってもそれは日常の差異である。

町田くんは毎日のように他人に触れる。彼曰く「僕は人が好きだ」からそうしているのかもしれない。彼は他人に触れる。今まで一度も関わったことのない他人に。その他人からすれば、触れられる以前の状態の町田くんはまず間違いなく昨日までは存在していなかった日常の中の差異であり、町田くんという差異に触れたことで、この世界は悪意に満ちていると信じる者や一生懸命を鼻で笑う者、自らの好意に素直になれない者らの日常は変容していく。

妻の善意を受け取れなかった悪意を信じる者は善意を伝える側にまわり、彼女の一生懸命な想いに気づけなかった鼻で笑う者は、これからは一生懸命生きていくと誓った。「人が嫌い」と言っていた素直になれない者もわずかではあるが、人と関わるようになった。それら変容の根底にあるのは"好きな人のために"という動機だと私は思う。悪意の者は妻のため、笑う者は彼女のため、素直の者は町田くんのために昨日とは違った行動を起こしたからだ。

しかし、町田くんにはそれが分からない。人そのものが好きな町田くんにとって、好きな人のために何かをするということは当たり前のことなのであり、特定の人のために何かをするのとそうでない人のために何かをするのとの違いが、彼には理解できない。しかし、善意には善意が、一生懸命には一生懸命が返ってきたように、町田君の好きにもまた、思いがけず好きが返ってくる。そうしてたくさんの好きを浴びたことで町田くんは、善意のハンカチを巻いてくれた、好意について一生懸命な彼女への想いに気づく。

「好きな人が自分を好きになってくれるなんて奇跡みたいなことだからさ」と彼女は言っていた。町田くんが彼女に対する好きを自覚したことで奇跡は始まったのだ。そしてその奇跡の光景は、悪意に満ちた世界にあって町田くんという善意を知らない人には見えない。

この世界には確かに優しさや奇跡がある。素直な想いを伝えれば素直な想いが返ってくるし、取り壊しの決まったプールの掃除でさえ意味があったように、意味の無い善行というのも、たぶんないのだろう。そうした当たり前に素敵なことを、当たり前であるが故に忘れがちなことを、この作品は示すのだ。

以上。

『さよならくちびる』 キスとルール

公式サイト(https://gaga.ne.jp/kuchibiru/)

f:id:hanazawaproject:20190605024920j:image

「本当に解散でいいんだな?」

ローディであるシマの念押しの確認に対し、ハルとレオはさして後ろ髪をひかれる様子もなく肯定の意を示す。

私はバンドなんて組んだことはないので、どういったところがどう解散に結びつくのかリアルなことは解らない。しかし、今回の彼女らがそうなった原因が人間関係にあるという点については疑いようがない。

最初に歪みが生じたのは、レオがシマに好意を伝えたところだろうか。ハルレオとシマの初対面の場においてハルが「グループ内恋愛禁止だから」とレオを牽制したこと、その後も「レオはシマと付き合えばいいよ」と続けていたこと、更に言うと、レオがシマに「口説けよ」と言っていたことや、林の中で強引にキスをしたことからも、日常的にレオはシマに好意的だったことが窺える。ただそれだけならよかった。問題はハルがレオに恋愛感情を抱いていたということだ。

ハルは同性愛者だった。とある仕事場でレオに出会ったハルはレオを音楽に誘う。ハルの言う通りレオが「歌いたそうにしてたから」そうしたのかもしれないし、ひょっとするとこの時既に一目惚れしていたのかもしれない。孤独だった自分に手を差し伸べくれたことからレオもハルに憧れを抱くようになる。ハルはレオに好意を伝える。それは自分が同性愛者だと打ち明けることと同義である。ハルは自分が同性愛者だとは家族にも伝えてはおらず、音楽を通してレオと一緒に生活する中で二人の関係はそこまで深いものになっていたのである。ハルの好意に応えるべく、キスをしようとするレオをハルは拒む。「ハルのためなら何でもできる」というレオに対し「無理しないで」といったあのシーンは、レオからしてみれば自分の好意が一蹴された、すなわちフラれたということと同じ捉え方をしたかもしれない。この一件でレオは音楽を続けていく意味を見失う。これが二つ目の歪みである。

第三の歪みは、シマのハルへの恋だ。ローディとしてハルレオと長からず付き合っていた中で、ハルが同性愛者だということを知ったシマは、ハルにその想いを打ち明けられずにいた。それでも、シマはハルの幸せを考える。しかしハルはレオの幸せを考える。劇中後半において、シマは自分よりレオのことを思うハルに対して怒りを露わにし、溜まっていた感情をぶつけ、強引にキスをせがむ。

3人の人間が関わりあって生まれる3つの歪み。最初は小さいものでも、時間の経過と共に大きくなっていくのが歪みだ。そして、そのどれにもハルが関わってくる。ではハルの存在がいけないのかというとそうでもない。ハルレオのファンは女性が圧倒的に多かったように思う。シマに対するライブハウスのオーナーの対応も、男性の方は解散を売りにした儲け話をしたのに対し、女性の方は二人を大事にしろと言っていたし、開場前のライブハウス前の人だかりに関しては100%の割合で女性だった。同性愛者であるハルが作った詩だからというわけではないが、ハルの作った曲なしには、会場が満席になることも、解散ライブが感動的になることもなかったのだろうし、それによって解散を免れることもなかったのだろう。

そうして3人は最後のライブツアーを完走し、帰路に着く。ハルレオを乗せた車が軽自動車にさえ追い越されるほどに遅い速度で走っていたのが印象的だった。解散の事実がファンに認知され始めた頃からだろうか。そうなったことで解散の実感が湧いたのかもしれないが、3人で行動するシーンが増えてくる。ナンパされた男にレオが着いていったりなどして各自が勝手な行動をとり続け、湖畔のシーンで遂に散り散りになってしまうかに見えたが、出発前にはきちんと3人が揃ったし、最後のライブ前は3人で昼食もとった。3人が同じ車に乗り、同じものを食べる。しかし、サヨナラだけが揃わない。

唇は人体の中で最も温度を敏感に感じる部位なのだという。3人の中でキスをしていない者がいないということに気づいただろうか。3人のうち、誰の立場になってみても他の2人とキスをしており、キスを通して互いの温かさを感じ取ることは、3人全員ができたはずなのだ。それによって、ハルレオという場所は各々にとって大切な居場所なのだということを自覚した。そしてその居場所は、他者(ファン)によって壊されることはないということをツアーを通して知った。後は自分たちが決断するだけとなった。

車が全ての始まりの場所に着く。ガソリンスタンドや駐車場に着くなりあれだけ勢いよく飛び出していた2人が、この時だけはなかなか降りようとはしない。シマに促されることでやっと降り、そして戻る。「ていうかお腹空かない?」ハルが切り出し、車は再び3人を乗せて走り出す。3人があの後とったであろう食事は、シマ曰く「3人でとる最後の食事」を乗り越えた食事なのだ。そうしてハルレオは、車内禁煙飲食禁止のルールを最後まで破り続ける。解散のルールだけ破れないという道理はなく、ツアーの途上でいかな困難にあおうとも「このツアーだけはやり切ってもらう」という当初のルールだけは守り通した。ならばきっとこの3人は、これからも歌い続けていくに違いないのだ。

以上。

 

『プロメア』 着火

公式サイト(https://promare-movie.com)

f:id:hanazawaproject:20190602022055j:image

ガロ・ティモスは、幼い頃に巻き込まれた火災からクレイ・フォーサイトの手によって救出されたことで、その勇姿に憧れを抱くようになり、バーニングレスキューに入隊する。べらんめぇ口調で自らの"火消し魂"を掲げ、周囲からは猪突猛進の筋肉バカとされるガロだが、恩人であるクレイの紹介でバーニングレスキューに入隊した手前、クレイの顔に泥を塗るような無鉄砲で騒動は起こさないようにしている。最も死亡率が高いとされるバーニングレスキューの現場でさえ、自らの身の危険をかえりみないガロが、クレイを想うという一点においては理性的になる。これは、ガロのクレイに対する憧れが並々でないことを示している。

しかし、ひょんなことからガロは、クレイが裏ではバーニッシュ(突然変異で誕生した炎を操る人種)を用いた非道な人体実験を行っていることを知ってしまう。そればかりか、自分がクレイに助けられたという過去は偽りであったこと、クレイにとって自分は目障りな存在であったということを他の誰でもないクレイ自身の口から言い渡される。ガロの言う"火消し魂"に火を灯したのはクレイであり、ゆえにそれを消すこともまた、クレイにとっては容易なことなのだ。

この一件で、ガロの燃える火消し魂はその勢いを失い、あとはクレイの野望の炎が燃え盛るままとなるかに見えた。クレイは手下達に各地のバーニッシュを捉えてこさせ、順調に研究を進めていく。そんな中、マッド・バーニッシュ(バーニッシュより更に攻撃的な一部の面々)のリーダーであるリオ・フォーティアが、クレイを襲撃しにプロメポリスに現れる。彼は、同胞を非道な人体実験に利用したクレイを恨んでいた。リオは、他のバーニッシュとは比較にならないほどの圧倒的な炎で街を蹂躙していく。怒りの炎をぶち撒けたいという衝動と、殺人はしたくないという自制がせめぎ合ってしまうことで苦しむリオの姿を見て、レスキューとしての使命感がガロを突き動かし、見事、リオ・フォーティアの鎮火に成功するのだった。

そうして互いに共通の敵を認識しあった両者は、打倒クレイ・フォーサイトに乗り出す。ここからは、ガロがリオに燃やされるという構図が強く押し出されている。リオ・デ・ガロンはリオの炎によって動かされるし、ガロの「機体のフォルムが悪いからやる気がでない」「纏(火消しの道具)がないとやる気がでない」というわがままには特殊な炎でそれらを創出して応えるし、ガロの身が危うくなれば自らの炎を分け与えて守る。クレイによって弱められたガロの火消し魂の火を、今度はリオが燃やすのだ。なればこそ、地球を救うにあたり、燃やし消すといった手段をとるために「燃やす」「消す」といった相反する目的を持つこの二人が協力することは必然であった。

リオが燃え、クレイが燃える。カウンター的にガロの火消し魂も燃やされる。燃えないという選択肢がない。だからこそ、この作品はこんなにも熱いのだ。

以上。

 

『王とサーカス』 感想

f:id:hanazawaproject:20190601023043j:image

ラジェスワル准尉は、麻薬の密売に手を染めながらも軍人であることに誇りを持っていた。八津田も麻薬を斡旋する一方で、僧として仏の教えを説いていた。

「ずっと手を汚してきた男が、譲れない1点では驚くほど清廉になる」

これはサガルにも言えたことだと思うのだ。記者という存在をひどく憎む一方で、それを罠に嵌めるとなれば、刺し殺したいという気持ちを抑えてまで親身になって対象をガイドする。

それと、犯人達の名前が少し面白い。推測だが、本書は実際に起こったネパール王族殺害事件をそのまま取り扱っており、それに関連する人物の名前は全て実名で表記されている。だからというわけではないが、"犯人は奴だ(八津田)""旅行客に食い下がる(サガル)"といった遊び心を、せめて架空の人物の表現には用いたかったということがあってもおかしくないのではないかと思う。

また、著者は本書と『さよなら妖精』の内容は連続していないと語っているが、同じ人物が登場するという点でどうしても『さよなら妖精』への目配せが行われる。確かに内容自体は連続していないのかもしれないが、それによって本書の一部の文言が勿体なくなるのも確かだ。しかも私は、その内容にさえ連続している部分が少なからずあると思っている。

大刀洗万智は、ラジェスワル准尉の遺体について伝えないことを選んだ。それは雑誌で取り上げる予定の王の死とは直接の関連がなかったからだと本書では触れられていた。しかし、全くの無関係ではなかったことは八津田が示唆した通りだ。ゆえに大刀洗万智は、ラジェスワルについて陰謀論的には伝えられずとも「王の死でこういった被害が出た」と写真を掲載してインパクトを与えることは出来た。ではなぜそうしなかったか。いや、著者はなぜそうさせなかったかと言った方が正しい。

さよなら妖精』において大刀洗万智は"伝えない"という選択をしたせいで、同級生の男子が自分についてひどく冷徹であり、冷酷でもあるという印象をもっているのだということを知ってしまう。それについて大刀洗万智は、自分はそんなに冷たい人間ではないと激昴するのだが、本書の終盤では「ひとごろしの私もおののくほど冷たい心がある」と言い渡されている。まるで呪いのように。

大刀洗万智は冷たい人間だ。しかし同時に、死者をいたわる善良さを持ち合わせている。ゆえに自分の冷たさに気づかない。これは言ってしまえば、大刀洗万智は探偵役に足る洞察力を持つ以外は平凡な人間ということだ。そして平凡であるからこそ、普通の人と同じようにサーカスを楽しめてしまう。ラジェスワル准尉は、サーカスというものは次の瞬間にも演者が地面に叩きつけられるかもしれない、はたまた猛獣に噛み殺されるかもしれないといったリスクを孕んでいる、自分にふりかかることのない惨劇はこの上なく刺激的な娯楽だと言っていた。大刀洗万智だけ例外というわけもない。彼女は、ラジェスワル准尉の遺体を晒したのがサガルだということを知っていた。しかし、そうした目的まではサガルと話すまで気づけなかった。ひょっとすると彼女は、写真を掲載させようと目論んだサガルに一泡吹かせるということも、掲載しないという選択をとる際に考慮に入れたのかもしれない。サガルの身に起こるちょっとした惨劇を楽しみたかったからだ。しかし大刀洗万智は、再び伝えないという選択をしたことで再び相手を傷つけてしまう。そしてあろうことか、真実は惨劇となって彼女の身にふりかかる。

ラジェスワル准尉の問いに答えられなかったこと、八津田の袈裟の着方について踏み込んで考えなかったこと、ラジェスワル准尉の死と王の死を結びつけられなかったこと、そして上記の通り伝えないという選択をとったことからして、大刀洗万智は未熟な探偵役と言えよう。そうした探偵は著者の別の作品、例えば『愚者のエンドロール』においてシナリオ制作に加担させられた折木奉太郎、『春季限定いちごタルト事件』において小市民ではいられない小鳩常悟朗に見受けられるところでもあり、これら全ての作品群からは「日常の謎」というジャンルにも共通点を見出せる。著者には、日常の謎に未熟な探偵をぶつけることで浮き彫りになる人間の愚かしさを教訓として伝える狙いがあるのではないか。そして私は、それこそ「日常の謎」の醍醐味だとも思うのだ。本書でその教訓にあたるのは、大刀洗万智が八津田の「追悼のため」という言葉を、"INFORMER"を、そしてサガルの可愛らしい表情を鵜呑みにしてしまい、回り道をしてしまったことだ。巻末に付された解説の「(本書は)情報を鵜呑みにするのではなく、主体的かつ批判的に読み解くメディアリテラシーの重要性について示している」については賛意を示すところだ。

以上。

 

『うちの執事が言うことには』 主役は

公式サイト(http://www.uchinoshitsuji.com/sp/)

f:id:hanazawaproject:20190519233622j:image

イギリス留学から帰国後、1日足らずで名家の当主に就任。突然のことに戸惑いながらも、当主としての執務をこなす傍ら、身の回りで次々に起こる難事件を天性の色彩感知能力と使用人達の助力をもって解決していく。そうして自分を取り巻く周囲の人々の思いやりにの深さに気づいていき、わがままで未熟だった烏丸花穎に「自分の輪の中にいる人全てを守る」という烏丸家の家訓に準じた当主としての自覚が芽生える。

大まかなあらすじを辿れば、今作はミステリというより、烏丸花穎の成長を主軸に据えた群像劇という色が強いように思う。作中に散りばめられた様々な演出もその軸を補強するものだ。

烏丸家の家紋には八咫烏があしらわれていた。八咫烏とは日本神話において登場し、神武天皇を熊野国から大和国まで導いたとされる三本足の烏だそうだ。初めはこの三本足というのが、赤目刻弥によって毀損された烏丸家の使用人、執事、運転手、ハウスキーパーのことを指していて、烏丸花穎独りで事件を解決させることをきっかけにし、花穎を当主たらしめる構成なのかと思ったが、解雇された執事・衣更月蒼馬の振る舞いを見て、すぐにそうではないことに気づく。衣更月蒼馬は黒いジャケットに身を包み、聞き込みで知り得た情報を烏丸花穎に助言することで、事件を解決に導いていた。冒頭のナレーションでは「烏丸家の歴史は使用人の存在なしには語れない」とも言っていた。ひょっとすると、八咫烏の家紋にはそうした歴代使用人の働きを尊重する意味が込められているのかもしれない。

さらに、烏丸花穎が座った椅子についてだ。当主任命の実感がないまま顧問弁護士との手続きを終えた後、ステンドグラスの前で昔交わした会話に思いを馳せていた時、信頼していた執事を解雇し抜け殻状態になった時。どれも2人が腰掛けられる椅子に1人で座っていた。ラストシーンで使用人に迎えられ、執務室の椅子に腰掛ける様を見るに、当主として未熟だった花穎は拠り所を探していたのだ。だから、ハウスキーパー代理に声をかけるし、食事中に雪倉叶絵を呼ぶし、なんということない時間を赤目刻弥と過ごすのだ。2人用の椅子に座って1人分のスペースが空くのは、花穎に拠り所を探してしまう弱さがあったからなのだ。

しかし、烏丸家の当主として振る舞う以上、そういった弱みは周囲に見せてはならない。花穎は執務室の椅子に、1人しか座ることの出来ない当主の椅子に座り、涙を流す。当主として、決して強いとは言えないその姿。しかし、それでよいのだ。大きく見せようとせず、萎縮せず、自分を変えず、他人を変えようとせず。それが、この家を支え続けたある老執事の教えだから。

以上。